ダリオ・トナーニの部屋

イタリアのSF作家ダリオ・トナーニを紹介する特設ページです。

『モンド9』冒頭部試し読み

プロローグ全文と第1章の「Cardanica」の冒頭部の試し読みコーナーです。一部の表記やスタイルが書籍のものとは異なっています(例えば、ふりがながついていない、フォントが異なる、横書きになっている、献辞省略、等)。そのため、多少印象が変わってしまうかもしれません。その点はご留意ください。

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『モンド9』

 

 

プロローグ

 

 

地平線上には何も見えない。

 私たちを追ってくる船は姿を消した。まさに蒸発した。

 砂上にいるのは私たちだけ。

 喜ぶべきなのだろうが、それほど喜べない。突然の圧力低下が頻繁に起こり、ボイラーは息切れを起こし、エンジンは限界に達している。砂丘をこれ以上進むのは危険な賭けだ。敵に肉を削がれなくても、砂漠が私たちを要求してくる。そんな気がする。

 船室に行くために私は通路を脇道に逸れ、船首の継手タイヤに通じるハッチの前を通った。何か身震いを覚える。この付近はもう、うろつかないようにしよう。

 

 ガッラスコは航行日誌から顔を上げると、机の上に置かれたガラス瓶に目を向け、瓶の口を覆っているハンカチを取りのけた。瓶の中では、五本指ほどの高さのまじり気のない砂に包まれて、小さな〈錆喰らいアザミ〉が休んでいる。船室の無口な相棒だ。

 茎と花冠は見えなかった。完全にミニチュアの砂漠の中にはまり込んでいる。

 瓶の脇には、古いネジとボルトでいっぱいの鉢。ガッラスコはネジを二本取り、瓶の中に落とし入れた。

 最初は何も起こらなかった。再び尖筆を手に取り、航行日誌に戻る。ハンカチはそのままに……。

 

 乗員たちと話をしておくべきかもしれないが、彼らの我慢強さにつけこむことはしたくない。部下たちは疲れ果てている。彼らの多くが三十六時間前から一睡もしていない。誰もがすべきなのは……

 

 小さな砂の間歇泉とともに何かが一メートルの高さまで噴き上がり、それから紙の上に落ちて、書いたばかりの行のインクを汚した。極小の砂粒が紙の上に撒き散らされた。ガッラスコは片手の手のひらで砂を払い、もう片方の手で、砂から再び現れた小さなネジを拾った。錆の痕跡はまったく残っておらず、軸は銀のようにぴかぴかで、ねじ切りされたばかりのように見える。

 ガッラスコは体の向きを変えて、透明なガラス瓶を観察した。〈錆喰らいアザミ〉は茎をまっすぐに伸ばし、まるで〈ロブレド〉の艦長の視線に挑んでいるかのようだった。花冠は閉じ、二つめの餌をしっかりくわえていた。

「札付きの悪ガキめ!」

 この小さな植物は砂の上にうずくまって獲物を反芻していた。その直後、二つ目のネジがガラス瓶に向かって勢いよく吐き出されるやいなや、瓶が粉々に砕けた。

「くそったれ!」ガッラスコはとっさに後ろに飛び退いた。

 インク瓶がひっくり返り、航行日誌の上に溢れでた砂に染みていく。

 ガッラスコは両腕を上げてもう一度悪態をつき、船室を出るとドアを荒っぽく閉めた。彼もバイオリンの弦のように張りつめていた。どのくらい前からまともに眠っていないのだろうか? もしかすると――とガッラスコは思う――操舵室に行って、副操舵手がどのように難局を切り抜けているのか確認した方がいいかもしれない。砂漠は、本物の砂漠は、いつだって眺めるにふさわしい壮観な一大スペクタクルなのだから……

 

 

 

Cardanica

 

 

〈砂上警備員〉はわずかに帽子を上げ、剃り上げた頭に指を滑らせた。黒色の長いワイパーがゆっくりと操舵室のゲルガラスを磨き、それに無機塩とアルカリの化合物を与えていた。旅を始めて四ヵ月目の初日は曇り空の水曜日で、夕方までには雨が降りそうだった。昨夜、トラブルが起こったが、それはまだ序の口だった。エンジンの突然の故障のせいで操縦に小さな不都合が生じたが、それがかなり厄介な故障で、警報が鳴り響いて乗員たちを苛立たせた。

 追ってくる敵船は巨大だが、幸いにもかなり速度は遅かった。しかし数日立てば、この逃亡も息切れし、追っ手は迫り、戦いが起こることが予想された。ボイラーが絶え間なく圧力の低下を続けていたのだ。

 背後から次第に距離を詰めてきている巨大な物体を除けば、彼らは六週間以上も前から砂漠と太陽に焦がされた大地以外、目にしてはいなかった。広大な黄色のモノトーン、その光景を遮るのは無邪気に転がっていく巨大なボール状の草だけ。その中に入って―草の棘から身を守るために内側を取り除いて―ギモルたちが時々旅をしていた。ギモルとは、この〈世界‐9〉(モンドノーヴェ)の亜熱帯地域に暮らす風の放浪民たちだ。

 ワイパーは格納場所に静かに戻り、それに続いてゲルガラスは餌を飲み終えた。〈ロブレド〉のあらゆる設備は、過酷な状況を生き延び、最悪な仕事をやり抜くために考えられていた。ガッラスコ・D・ブライは〈砂上警備員〉の立場で、別の四隻の輸送船に乗船したことがあったが、そのどれもこの堂々たる驚異の船の足元にも及ばなかった。排水量二万五千二百トン、出力四万五千馬力の蒸気ボイラー八基、乗員七十三名、独立した六つの車両、そのために車両と同数設置された自律式タイヤユニット。この船は金属とゲルガラスからなる傑作だが、その内部には機械工学が生んだ本物の至宝であるユニットが六つ設置されていた。そのおかげで〈ロブレド〉は、どんな起伏のある地面の上でも、過度に大きな衝撃を受けることなく旅を行なうことができるのだ。それが、この六つの継手タイヤだ。継手タイヤ一つだけで、船のそれ以外の部分すべてを合わせた以上の価値があった。もし〈ロブレド〉が死ぬ、つまりは極地域の砂上で難破したり、巨大な湖の周辺地域で雷を伴う大嵐によって破壊されたりしたなら、継手タイヤが船本体から切り離され、プログラムによって自動的に一番近くの港に向かうことになる。到着した港では、継手タイヤは最も互換性のある輸送船に取り付けられる。どんな船主であれ、眩暈がするほどの大金を支払ってでも、自分の船にそれを設置する技術者の一団を大急ぎで用意しなければならない。

 ガッラスコがこれまでに見たことのある継手タイヤは、せいぜい二つだけだった。しかも〈ロブレド〉に設置されているような最新型となると、一度も見たことはなかった。

 副長であり副操舵手のヴィクトル・ガリンデスは舵を軽く右に切った。滑らかな金属板が耳ざわりな音を立てて、〈ロブレド〉は曲がる準備をする。騒音が勢いを増し、金属と金属が擦れる悲痛な音色を帯び始めた。リノリウムの床の上、ヴィクトルは両足をしっかり踏ん張りながら、操舵輪の傾きを増していく。まだ曲がり始めないうちから〈ロブレド〉が砂にはまり込んでしまうのを避けるため、速度は時速二マイル以下に落としてはならない。ガッラスコは各計器盤に目を光らせていた。

「速度がぎりぎりだぞ、ヴィクトル」顔を左の舷窓に向け、深く息を吸い、ゲルガラスに額をつける。このゲル状のガラスが顔に張りついて、外部に向かって伸びていく。皮膜の中で呼吸を我慢したまま、ガッラスコは顔を船尾に向けた。それから後ろに下がり、息を吐き、呼吸が戻るのを待つ。「よし、今度はそれを維持しろ」

 ガッラスコの後ろ二十メートルで、連なる各車両が弓なりに並び、ゆっくりと進んでいた。〈ロブレド〉の船首が継手タイヤを通して、残りの車両を導きながらカーブを描いている、という明らかなしるしだ。金属板のきしる鋭い音が操舵室に鳴り響き、耳をつんざいた。ガッラスコは再び顔をゲルガラスに浸し、外に向かって身を乗り出す。与えられたばかりの食事によってゲルガラスは回復しており、伸縮性のある薄い膜が伸び広がりながらガッラスコの鼻と口にぴたりと付着した。しばらく息を止め続けた後、船内に頭を引き戻し、頬をマッサージして、両耳に防音用のイヤーマフをつけた。ガッラスコの前にいるヴィクトルはわずかに右へ移動すると、体を梃子代わりにして舵の傾きを少しばかり左方向に増した。ガッラスコは隔壁にかかっていたイヤーマフを外し、ヴィクトルの頭につけてやった。ヴィクトル・ガリンデスは背中を向けたまま頭を動かして、ガッラスコに感謝の意を示す。そのとき一連の打撃音が床下で反響し、ガッラスコはよろめいて右の隔壁にぶつかった。イヤーマフで耳を覆っていてもなお、船の進む方向が変化していくたびに金属の表面が互いに擦り合わされて、くぐもったうめき声が上がり、それが赤く焼けた針のように鼓膜を刺し貫く。操舵室は上方に――一度、二度――大きく持ち上がり、それから激しく揺れ始めた。まるで床の下すぐのところに予想外のエネルギーが流れて船を揺さぶっているかのようだ。

「何が起こったんですか?」ヴィクトルが尋ねた。彼は、艦長用座席と航海士用座席とを区切っているレバー類やフライホイール、シフトレバーの中央に倒れていた。パニックになりかけていた。

 操舵室は静けさに包まれていた。コンソールのあらゆる計器盤が、機械が突然に停止したことを示していた。

「止まってる」ガッラスコは、ヴィクトルを助け起こしながら説明する。「外にある何かのせいで失速し、エンストしたんだ」

 警報ブザーに、二人はびくっとした。

「くそっ、なんてことだ。圧力ゼロだ。こんな角度に傾いたままで、もしボイラーが動かなかったら、三十分で俺たちはあの下だ」

 ヴィクトルはインターホンのスイッチを入れた。苛立ちすべてを怒鳴り声としてぶちまける時間はかろうじてあった。彼はコンソール上の大きな時計に目をやった。圧力がないということは、もはや孤立してしまったということだ。いったい何が起こったのかを確認したいのなら、方法はただ一つ。操舵室を放棄して、一番近くの継手タイヤに入り、そこから別の車両にたどり着くことだ。何より地面に降りるというのは慎重さに欠ける行為だ。何かに感染したり、〈ネズミ虫〉に噛まれたりしかねない。船外を三歩以上歩かなければならなくなったら最悪だ。

 その上、すでに二分前に継手タイヤが自律的生存(SA)プログラムを起動していた。すなわち継手タイヤが〈ロブレド〉(つまりマザーユニット)から分離して巡航するのに最適な形態を取るように、水圧式システムに命令が下されたのである。これが意味するのは二つのことだけ。(1)〈ロブレド〉は失われた。(2)急ぐ必要がある。もし行動が遅れてしまえば、ただそれだけでSAプログラムには適合者だと認識されず、招かれざる客として拒絶される危険がある。それとも燃料または潤滑油として利用するために迎えられるかもしれないが。

「武器を取りに行こう」ガッラスコは副長に向かって大声で言った。

「そんな時間はありませんよ、〈砂上警備員〉殿」ヴィクトルは最初の通路に通じる錫製の扉の取っ手と格闘していた。

 ガッラスコは隔壁に固定されていたゴム紐からダイナモ灯を引き剥がし、それをしっかりと握り、ヴィクトルの後ろから薄暗い空間に入った。十二歩進むと、操舵室の小窓から入り込んでくる光は途切れ、通路はどろりとした暗闇に浸された。先頭の継手タイヤまでは一筋の光も入ってこないだろう。さらに少し進むと、連続する機械音が聞こえてきた。この変形動作の音には、わずかばかり元気づけられた。継手タイヤはきちんと作動しているのだ。

 突然、急ぎ足のヴィクトルが歩く速度を落とした。床を叩いていた靴の音が、和らいだ擦り音に変わった。

「どうしたんだ?」ヴィクトルの後ろ十二歩ほどにいた艦長が大声で言う。

「オイルですね」自分の足を見ながらヴィクトルは言った。「この嫌な野郎は懸命に作業を行なっています。こいつが機能形態に移行するには九樽分のオイルが必要なんです。だって、こいつの中にあるのは、人口五万人の町で見つけられる以上のたくさんのレール、歯車、ピストン、カルダーノ式自在継手……」

「わかっている。こいつが求めているのは生き残ることだけだ。こいつは、湿ってさえいればどんなものでも潤滑油として利用できる」

 ヴィクトルは顔をしかめ、足を滑らせないように注意しながら再び歩き始めた。「そうですね。人間の血でも肉でも。呪わしい金属の表面の滑りをよくするものなら、それで事足りるんだ」

 二人は通路のほぼ三分の二のところまで来ていた。各継手タイヤには二つの通路が繋がっていて、それらは排出管として役立っていた。のろのろとした機械の変形過程から生まれた余剰物や残滓が、その通路を通して排出されるようになっている。基本的にはオイル、潤滑油、油のやに、金属くず。だが、とりわけ通路から溢れ出てくるのは騒音で、それは大量にあるくせに、最も無駄で無用の要素だった。確かにこの上もなく煩わしいものだ。二人の男はわずかに流れる生温いオイルを踏みながら歩き、転んで尻を浸してしまわないよう互いにしっかりとしがみついていなければならなかった。ダイナモ灯はなんとか通路の暗闇を貫いてはいたが、正面にある鋼鉄の壁から流れ出してくる騒音の塊に対しては、何の役にも立たなかった。たとえ防音用イヤーマフで守られているとしても、ガッラスコと副長は、暗闇の中で爆発する轟音が内臓にまで響き渡ってくるのを感じていた。突然、ダイナモ灯の光が震えたと思ったらそのまま消えてしまった。そのとき二人は、継手タイヤの「声」に永遠に殴られ続けるのではないかと不安になった。

 だが二人は、何とか隔壁にたどり着いた。高熱で鍛えられた厚さ二十センチの鋼鉄で、そこには高さが一メートル半には届かない、幅八十センチのブリキ製の扉が設置されていた。

 ガッラスコは滑らかなその金属の上に片手を走らせ、懸念していたことを確かめる。「やはり熱いな。ほら、ここだ」

 ヴィクトルは片手を伸ばし、歯のあいだからため息を漏らした。〈ロブレド〉が停止してからまだ十分か、十二分以上経ってはいなかった。「もう少し待ちましょう。そうすれば、この中に入ってもあまり汗をかかなくてすむでしょう」

「そうだな。だが、この継手が完全に冷えるまでは待てない。きっと数時間はかかるだろう。その頃には、こいつはここからすでに二十マイルは離れてしまっているかもしれないぞ」

 

*  *  *

 

 私が継手タイヤで見つけた手帳は、日誌として役立つだろう。これ以降、私は自分の気づいたことをまとめ、わずかに残された空白のページに、私たちの新しい環境についての印象や考えを書き留めていくつもりだ。数週間はこれに乗ったままになるだろうし、この内部はすべて驚きでいっぱいだ。ヴィクトルはうろたえている。だが私もだ。手帳の最初の方のページに見つけた名前のリストは私たちを不安にし、一連の疑問を抱かせる。誰がこのリストをまとめたのか? その理由は? 作成されたのは〈ロブレド〉の難破前なのか、それとも難破後なのか? 〈カルダニク〉――この継手タイヤはそういう名前だそうだ――は、私たちになかなかの気配りを見せてくれている。だが私は無数の疑問を持ち始めている。

 

*  *  *

 

 ヴィクトルはガッラスコに脇によってもらい、前に出ると円形の取っ手をつかんだ。時計回りに回そうとするが、開閉装置は動かなかった。「びくともしない」とため息をつき、両手を離すしかなかった。ガッラスコは「ますます暑くなってきた!」と言ってジャケットを脱いで片袖を引きちぎると、ヴィクトルに手渡した。それで取っ手を包むためだ。

「くそっ、滑っちまう」

「俺がやる」

 同僚を脇に押し退けたが、すぐにガッラスコも諦めるしかなかった。「オーケー、しかるべき時を待つことにしよう」

 ガッラスコはダイナモ灯の光を時計の文字盤に向け、通路の壁に背中をもたせかけた。円錐形の光は長ズボンと濡れた靴をぼんやりと照らし出していた。「俺の計算が正しければ、四分後に搭乗が認められるだろう。その後に反対の端から出て、船の次のセクションに到達するのは無理だと思う」

 ヴィクトルは無言で頷いた。ライトが消えたが、ガッラスコはそのままにしておいた。二人は暗闇の中、佇んでいた。「これまでに継手タイヤに乗ったことはありますか?」

 騒音の勢いは弱まっていた。壁の向こうで、ある状態から別の状態に作業プロセスが移ったしるしだ。基本構造部、外部フェアリング、機関室、船室は起動準備を整えて、そのまま待機していた。接続部、連結装置、錫めっきなど、たいして重要ではない部位はそのまま放置された。最後には第三フェイズが始動することになる。そのフェイズが半分を越えると遭難者の搭乗は完了することになるが、それは母船を放棄してから三時間のあいだに行なわれる。内部環境の冷却については、ガッラスコが先ほど話題に出した、まさにその時間に行なわれるのだ。また水については、五時間経つまでは飲用には適さない。このことに関する知識がまだ有効だったとすればの話だが。

 アカデミアでは、継手タイヤの理論についてはあいまいな指示しか与えられなかった。どのような機械的、設計的な驚きがそこに隠されているのか、精密工学に関する計算と作業がどれほど必要だったのか(高度な金属加工技術、だそうだ)、ということについては説明が行なわれた。しかし、車輪付きの船がカーブを曲がり、起伏のある地面の上を進むことを可能にする役目が――船の遭難のために――なくなってしまえば、今度はサバイバル用の機械として単独で活動する。そうした特性については、アカデミアで触れられることはほとんどなかった。この欠落のせいで、アカデミアの生徒のあいだでは、その危険性に関するさまざまな伝説が花開いていた。実際、継手タイヤに乗って港に帰還できたのはせいぜい六名ほど。さらにそのうちの三名は、恐ろしいことに手足が切り取られていた。戦争が続いているにもかかわらず、遭難事故が起こるのはまれだということ、貨物船と旅客船の半分以上が継手タイヤを装備していないということ、さらには、この機械に乗って生き残った六名は、六十五日の旅の果てに文明を見つけるまで、およそ八百マイルもの長い道のりに立ち向かわねばならなかったということ……、こうした情報を隠しておくことなど誰にもできなかった。

「乗ったことがあるのかと訊いたのか?」ガッラスコは苦い笑みを浮かべて言った。「ああ、あるさ。アカデミアでマザーユニットからそのひとつが取り外された。そこで四週間の講義と二度の筆記試験を受けた。だがその継手タイヤは死んでいたも同然だった……それを無害にしたのはギルドの〈毒使い〉たちらしい」

「つまり、まったく動かなかったということですか?」

 暗闇の中、ガッラスコは唇を鳴らした。「そうだ。オイルも潤滑油も、他のものもすべてそろっていた。だが、継手、滑車、歯車が動くのを見たければ、それを自分で押してやらないといけなかった」ダイナモ灯を再びつけて、もう一度時計を確認した。光が完全に消えてしまう前に、なんとか文字盤を読むことはできた。扉のロックが解除されるまで、あと一分半。〈ロブレド〉の圧力低下にもかかわらず、継手タイヤがまだ活動できるのであればだが。生温いオイルの中にダイナモ灯を投げ捨て、ガッラスコは再び話を始めた。「思い出すな。一度教官に尋ねたことがある。これを不活性化させるためにどんな毒薬が注入されたのか、とね。だが教官は答えてくれなかった。他の教官や士官たちに、さらに十二回も質問攻めにした後で、ようやくある者が教えてくれた。こいつはただ眠らされているだけであり、機能を回復させて、メカラットのドックで組み立て中の軍事ユニットに設置して働かせることが計画されている、と」

「眠らされている?」

「そうだ。俺が思うに、その者は麻酔をかけられていると言いたかったのだろう。継手タイヤは機械装置や緊急脱出ユニット以上の何かじゃないか、と俺は何度も考えたことがある」暗闇にガッラスコは片手を伸ばし、鋼鉄の隔壁に触れてみた。「俺たちは、その中に入ることになるんだ」

「準備はできました?」

「俺はできている。おまえは?」手探りで取っ手を探し、それをつかむと何の抵抗もなく回り始めた。「ひとたび中に入ってしまえば、もう最初の港に着くまで外に出ることはないぞ、わかっているか? もしかすると一年かかるかもしれない」

 ガッラスコは、暗がりの中で同僚が唾を飲み込む音を聞いた。それから肩で扉を押し開けた。二人を、〈継手タイヤ1号:ロブレド用脱出艇〉から隔てている扉を。

 

(試し読みここまで)

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